観音さまの魅力

「実物を目の前に学芸員が詳しく解説」する「浮城特別鑑賞講座 湖国“モノ”語り」第3回「近江の観音-慈悲の仏-」が、12月22日(土)に滋賀県立琵琶湖文化館にて開催されました。参加40名の中には和歌山県からお越しの方もあり、感心の高い熱心なファンの方々が受講されました。

冒頭、講師の榊学芸員が「本日これだけ多くの方々が講座にお越し下さったのは、私(講師)の魅力ではございません。近江の観音さまの魅力が、多くの方々に愛され、皆さんを惹きつけて止まないということです」と、ご挨拶されました。・・・なるほど・・・いやいや、なかなかのものでございます?!

はじめに、近江にはどのような観音像があるのか、お話されました。国宝1件・重要文化財101件・県指定文化財11件が、県内各地に分布しているということです。特に県内で重要文化財に指定されている彫刻375件の内、101件が観音さんであるというのですから驚きです。以前、東京に住む知人に「滋賀といえば何を想像する?」と尋ねたところ、「観音さん」との答えが返ってきました。ナルホド「滋賀に観音アリ」と言われるゆえんも納得です。(地元にいる私たちの方がその有り難さに鈍感になっているのかもしれませんね。)

観音さまは主に湖北・湖南地域を中心に、平安時代(古い!)のものが数多く残っています。
なんと言っても有名なのは
・国宝『十一面観音立像(じゅういちめんかんのんりゅうぞう)』 高月町:向源寺(渡岸寺)        <昭和28年3月 国宝指定>
昨年東京国立博物館で、この十一面観音さんが展示された時には、そのお姿を見るために長蛇の列ができたとか。「滋賀に観音アリ」と言わしめたこの仏像、すらりと伸びた手足とわずかに腰を左にひねる立ち姿、流麗に刻まれた衣文など、平安時代前期の美意識を強く表した日本を代表する観音像だということです。素晴らしい!

心なしか、この観音さまを説明する榊学芸員の顔もうっとりとしてました(笑)
・重要文化財『観世音菩薩立像(かんぜのんぼさつりゅうぞう)』 大津市:石山寺
おいたわしい姿の観音さま。戦後盗難に遭い、頭部が失われてこの姿に。頭は大きめに造られていたことが分かっており、童子のような印象で、腰を右にひねって立つ姿は美しく、近江の奈良時代後期を代表する金銅だそうです。
現状の大きさ60.3cmと小さめのお像ということですので、もし残っていればとても柔和な表情のお顔が拝めたかもしれませんね。
滋賀の宝を返しなさい!
・重要文化財『十一面観音坐像(じゅういちめんかんのんざぞう)』 甲賀市:櫟野寺(らくやじ)
 櫟野寺には、本尊十一面観音坐像を筆頭に、七件の重要文化財を含み、大小二十体以上の仏像が伝来しています。
 中央の厨子(ずし)内に安置される秘仏十一面観音坐像は、国内最大(312.0cm)の木彫仏として有名で、滋賀県を代表する仏像の一つです。伝教大師最澄が、霊夢を受けて、櫟木に十一面観音像を彫ったものと伝えています。

いやぁ滋賀を代表する観音さまたち、写真映像で見ただけですが、さすが緊迫感があるというか、荘厳さがありました!(ブログをご覧の皆さまにはシルエットでご勘弁いただいております)

ちなみに私たちは普段「菩薩さん」「観音さん」と呼んでますが、その意味ご存じでしたか?

菩薩(ぼさつ)はサンスクリット語で、
    Bodhisattva(ボディーサッタバ) :偉大なる志を持った求法者 という意味。
    中国で経典を翻訳するときには音を取って、「菩提薩埵(ぼだいさった)」と訳されました。
    それぞれ菩提はさとり、薩埵は生ける者を意味しています。
悟りを得るために修行をする者で利他行(他人に対して慈悲の行を行い、自らの修行とすること)を行う修行者をいいます。紀元前後に大乗仏教が成立する際、大乗仏教の修行者達は自らと部派仏教(小乗仏教)の修行者である阿羅漢や声聞とを区別するために新たな称号を作り、名乗りました。ですので、菩薩は実在の人物をさすのです。

観音(かんのん)はサンスクリット語で、
    Avalokiteśvara(アバロキーテーシュバラ)といいます。
    意味は、Avaがあまねく、lokiteが見る、śvaraが自在なる者という意味です。
    すなわち観音さんは文字を組み合わせて作られた名前であり、架空の存在であるということが
    分かります。
中国で観音さまは二つの名前で翻訳されました。
 『法華経』を訳した鳩摩羅什は、経典の内容から「観世音菩薩」と訳しました。一方、西遊記でおなじみの三蔵法師玄奘は、文字の意味から「観自在菩薩」と訳しました。

ですので、観世音も観自在も正しい名前なのです。しかし、観音信仰の中心となった経典が『法華経』でしたので、「観世音」の名が一般的となりました。

さらに、観世音の「世」の字は、中国唐代の第二代皇帝・李世民の諱と同じ事から避諱され、「観音」と呼ばれるようになります。今でも観音の呼び名が一般的なのは、我々日本人の仏教が奈良・平安時代に唐から請来されたものでしたので、いまでも観音と呼ばれているのです。歴史の繋がりを感じますね。

ちなみに講座では、観音信仰の基本となった『法華経』をみんなで読んでみました。経典の内容なんて考えたことがありませんでしたが、実際に読んでみると意外とわかりやすく、物語のように描かれていることが分かりました。

お釈迦さんに弟子が観音さんの名前の由来や、救済の内容を訊ねると、釈迦は丁寧に説明をします。観音はどんな世界であっても、一度その名を唱えれば、すぐさまやってきて、大火や大水などの苦難から救済してくれます。
 
救済の場面に応じて様々な姿に変身してやってくるので、隣にいる友達も実際は観音さまの変化した姿かも知れませんね。
      
その救済の姿が三十三の姿(「三十三身」)に変化することから、三十三という数字との深い縁ができました。有名な『西国三十三ヶ所巡り』は日本でもっとも古い歴史を持つ巡礼の行ですが、これもこの観音菩薩の三十三身と関係があります。
県内には
  第12番 岩間山正法寺(大津市)    第13番 石光山石山寺(大津市)
  第14番 長等山園城寺(大津市)    第30番 厳金山宝厳寺(長浜市)
  第31番 姨綺耶山長命寺(近江八幡市)  第32番 繖山観音正寺(安土町)
があり多くの人々が参拝に訪れています。

古く飛鳥時代から行われた観音信仰ですが、密教の伝来によって「現世利益」(いま生きている世の中での救済)の仏像として各地に造られました。観音像として実際に造立されるのは主に「六観音」と呼ばれる密教系でしたが、浄土信仰とも一体化し、六道救済(死後の世界:地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)の尊像として多く造立されるようになったようです。
<聖観音(しょうかんのん)>六道では地獄の救済
特に左手に未敷蓮華を執り、右手を添える姿の聖観音像は、慈覚大師・円仁が請来した姿であり、「横川式聖観音」ともいうそうです。
延暦寺、乗念寺、金剛輪寺など

(大津市 延暦寺横川中堂本尊)
<如意輪観音(にょいりんかんのん)>六道では天道の救済
お顔が1つで、手が6本、右膝を立てて左足裏を踏む姿
女性救済を司る観音としても信仰を集める
園城寺、石山寺、百済寺、井上区など

(栗東市 井上区)
<准胝観音(じゅんていかんのん)(真言宗)
 不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)(天台宗)>
六道では人道を救済
県内には少なく、黒田観音堂の伝・千手観音立像が当初は准胝観音として造立されたと推察される。

(木ノ本町 黒田観音堂)
<千手観音(せんじゅかんのん)>六道では餓鬼道を救済
「千手」といいますが、実際に千本あるわけではございませんよ?!
1本で25の世界を救う×40本で1,000本!手にはそれぞれ眼があり「千手千眼観音」とも言われます。

園城寺、長命寺、福寿寺、日吉神社など

(大津市 延暦寺) 
                とっても珍しい「千手千足」観音さん
                         (高月町 正妙寺)
<十一面観音>六道では阿修羅道の救済
観音の威力を頭上の十一のお顔で表しています。髻(もとどり)の頂上には仏面(仏さま)のお顔があり、
向かって 正面の3つが菩薩面(やさしいお顔)
       左側の3つが瞋怒面(おこったお顔)
       右側の3つが狗牙上出面(むさぼりのお顔)
       背面に1つ暴悪大笑面(腹の底から笑ったらこんな顔?!)
向源寺、盛安寺、鶏足寺、正福寺など
(木之本町 鶏足寺)
<馬頭観音(ばとうかんのん)>六道では畜生道を救済
観音の中でも唯一忿怒(ふんぬ)の表情
3つのお顔と8本の手、頭上に白馬頭
馬を象徴とすることから、交易の観音として、祀られることが多く、若狭や湖北地方に多い
横山区、徳円寺、山門公民館など
(高月町 横山神社)

私、驚いたのが、曼荼羅(マンダラ)の中にもそれぞれの観音さまはご出演されているのですね。知りませんでした・・・


講座では、
 ・観音菩薩立像(長福寺) 1軀
 ・如意輪観音坐像(法蔵寺) 1幅
を見せて頂きました。

 この如意輪観音さん、永くお寺の屋根裏にその存在に気付かれず眠っておられましたが、調べてみると平安後期の貴重な作品だということが判明!あれよあれよという間に県指定文化財から国の重要文化財に指定されたという、文化財の宝庫・近江らしい経歴をお持ちの仏画でした(笑)美しく残る繊細なライン、平安のモノとは思えない鮮やかな色彩、重文に指定されたのも納得でした。


最後に、「なぜ近江には多くの観音像があるのか?」榊学芸員はこう解説されています。

観音さまは手に聖水をお持ちになり、水と関係が深い。近江は琵琶湖の湖上交易はもちろん、琵琶湖に注ぎ込む河川は豊かな恵みをもたらす水源として五穀豊穣を祈る農民の生活とも密接に関わってきた。多くの戦乱に巻き込まれながらも、平穏な生活を願う庶民の祈りは仏の慈悲にすがる切実な祈りにつながります。また、平安という古い時代の仏像が現在まで永く受け継がれてきたのは、惣村や土豪など、地方の自治制度が確立する中で、「地域の守り」として観音を崇め奉り、集団で守ってきたことにもよる。しかし、何よりも生きることの苦しみが多かった時代に様々な姿で人々の前に現れて人々を救済するという観音さまに、多くの民衆がすがったためと考えられます。

時の権力者が造立し、擁護されてきた仏さまもあるでしょう。一方で、地域の住民の手で守られ尊ばれて今に残る仏さまがあることを知り、少し嬉しく思いました。私たちの住む滋賀には私たちに近しい存在で「慈悲の仏」観音さまがたくさんいらっしゃいます。とても愛すべき近江であることを知りました。

ちなみに今回の講座は 1月14日午後9時~「教育ウィークリーリポート」(びわ湖放送) で放送予定です。

さて、次回の「浮城特別鑑賞講座 湖国“モノ”語り」「近世絵画の楽しみ方-その真と贋-」と題し1月26日(土)に開催されます。やはり実物を目の前にできるこの講座は魅力大!関連資料を目の前に、学芸員による詳しい解説が聞けますので、是非参加してみてはいかがでしょうか。詳しくは滋賀県立琵琶湖文化館TEL:077-522-8179まで。

最後まで読んでいただいた「近江の観音」を愛する皆さまへ
こちらの「大笑い」されているお茶目な方は誰でしょう?!もうお分かりですね?
ヒント:滋賀を!日本を!代表する観音さまです。
 答えは次回、第4回のブログの中で!


参考文献)『近江の仏像』西川杏太郎 至文閣 昭和60年
   『魅惑の仏像7 十一面観音 滋賀・向源寺』毎日新聞社 昭和61年
   『東寺の両界曼荼羅図 連綿たる系譜-甲本と西院本』東寺宝物館 平成6年
   『近江路の観音さま』特別展図録 滋賀県立近代美術館 平成10年
   『聖武天皇とその時代-天平文化と近江-』特別展図録 滋賀県立琵琶湖文化館 平成17年


  


大津事件っっっ!


「実物を目の前に学芸員が詳しく解説」する「浮城特別鑑賞講座 湖国“モノ”語り」第2回「大津事件-事件とその後の顛末-」が、11月24日(土)に滋賀県立琵琶湖文化館にて開催されました。
「大津事件」・・・社会の教科書で習ったような・・・気もする?!という曖昧な記憶の方に!ヒント!



 さぁ、どうです?この顔に見覚えありませんか?

 最大ヒント:サーベル

事件は、明治24年(1891)5月11日、ロシア皇太子ニコライ(のちの皇帝ニコライ2世)が、日本を私的に遊覧旅行していた時に、大津で起きました。
警備中の巡査津田三蔵ニコライサーベルで斬りかかり右のこめかみ2ヶ所に傷を負わせます。




<ニコライ歓迎の様子>
その場で捕らえられた三蔵は、滋賀県監獄所に収監されますが、裁判の結果、無期徒刑となり釧路集治鑑に送られ肺炎で死亡します。故郷の伊賀上野には三蔵のお墓がその身を憚るように小さく立てられています。
(裁判は大審院院長児島惟謙が、三蔵の極刑を望んだ政府の圧力に抗して、裁判の独立を守ったことで有名です)

 傷を受けたニコライは、近くの呉服屋永井家で介抱されますがその後、京都から列車に乗り、神戸港停留中の軍艦に帰還しますが、実は、この永井家をめぐってその後もいろいろな駆け引きが起こっているんです!

(事件発生直後、政府は記事の差し止めや発行停止など報道規制に躍起になります。そういう時代だったんですね)

 明治27・8年頃から皇太子を介抱した永井家へ来訪者(ロシア人・インド人・日本人通訳など)が増えます。神にも等しい皇太子の血が流れた土地、皇太子の命が助けられた場所、来訪者は現地の写真撮影や、介抱した時に血が付いたハンカチ・座布団など「紀念品」の見学をしていきます。

<その後>
  明治31年・・・この土地を京都教会堂三井某(牧師)が(ロシアの意向を受けて)
            「普通の価格の10倍の値段で買い取りたい」と申し出る・・・断る
  明治32年・・・大津町在住の6人から次々に買収の話が出る
            ・・・断る(「三井某ノ内意ヲ受ケント思フ」(内偵報告書より)
  明治32年・・・軍司令官ピーポスニコフ永井家訪問:同行した妻、牧師らとともに祈祷を行う
            ・・・「露国宗教本部ヲ建設セントノ計画有之」(内偵報告書より)・・・日本アセる!
  明治34年・・・ロシア士官バクビーテーフ永井家訪問:紀念品を閲覧し、血染めのハンカチに
            接吻! ・・・ここここれは・・・???!

明治という緊迫した国際情勢の中で、これらロシア側の動きに不穏なもの(裏工作?)を感じた日本は、それならばと「永井家の買収」に打って出ます。
 明治34年6月15日 河島滋賀県知事が東京出張
              →内務大臣と協議の結果、永井家土地家屋買収の方針が決定
              →北川良慎滋賀郡長が内意を受け、個人として売却の折衝にあたる
                  (政府が関係しているなんてロシアが知ったらそれこそ国際問題!)
       8月 9日 数度の交渉の末、買収決定
       8月10日 滋賀県と内務省の調整
                ①土地家屋は北川滋賀郡長の名義
                ②紀念品の県への献納とその厳封 など
       8月19日 永井長助から北川良慎に対する誓約書
       8月22日 北川良慎が念書作成
                ①滋賀県知事の内示により便宜上当該土地家屋の所有者となったこと
                ②一切の権利は滋賀県知事にあり異議を唱えないこと
                ③将来名義変更が必要となった時には何時でも無償で指示に従うこと
                      ・・・ちょっとよく考えればこれはかなり強引な念書です・・・
これで「永井家」は「北川滋賀郡長」のものとなります。

<さらにその後>
 明治44年5月10日 北川良慎から日本赤十字社に対し旧永井家土地家屋の寄附を申し出
       5月17日 日本赤十字社へ寄付物件を滋賀支部の建物として使用することの承認申請
       5月30日 日本赤十字社より滋賀支部長に対して寄附採納承諾書提出
               →以下の2つの条件文が明記される
                  ①土地家屋を他に転売しないこと
                  ②不要となった際には滋賀県庁に寄附すること(ここがミソ!)

こうして大津事件関係の物件は“公”のものとなり、約10年におよぶ滋賀県庁と内務省の連携によって周到に進められた政策は実を結んだのです。血染めのハンカチやサーベルは滋賀県指定文化財として現在は琵琶湖文化館に保管されています。

今回の講座ではその貴重な現物を間近に見せて頂きました。
証拠品は厳重に箱に収められ、「いつ誰が開封したのか」分かるように覚書きが何枚にも書かれていました。
 ●血染めのハンカチ:綿のかなり大判サイズ。血が変色してましたがかなり付着してました。
 ●座布団:やはり血の跡が・・・黒いシミに。
 ●サーベル:日本刀をサーベルに改良したもので、サビも付着。ずっしりと重い(らしい)

さらなる後日談ですが、以前、ロシアでニコライ皇帝一家と思われる遺骨が発見された折り、それが本物かどうか、DNA鑑定で調べるため、ハンカチの一部と座布団の綿をロシア係官が持ち帰ったそうです。あいにくDNAはすでに壊れていて、判定は無理だったそうですが、斜めに裁断されたハンカチは生々しく、まさに歴史を物語る生き証人でした。




現在は、大津市京町二丁目の辻に跡碑が建てられています
さて、次回の「浮城特別鑑賞講座 湖国“モノ”語り」「近江の観音-慈悲の仏-」と題し12月22日(土)に開催されます。やはり実物を目の前にできるこの講座は魅力大!関連資料を目の前に、学芸員による詳しい解説が聞けますので、是非参加してみてはいかがでしょうか。詳しくは滋賀県立琵琶湖文化館TEL:077-522-8179まで。